純粋な感性というものにひどく惹かれるし、同時に羨んでしまう。
わかりやすいところでいえば、子どもの描いた自由な絵や作文がその感性の鋭さや視点の純粋さからときにものすごく心を打つことがあるが、私はとくにそれを成人したひとから感じたとき、ぼこぼこに打ちのめされて仰向けになってしまうのである。
たとえばですけど
最近「おお」と思ったことがある。
人気歌手がジブリ作品の主題歌を担当したことが話題になり、おそらくずっと公表を控えていた本人もツイッターでそのことを発言していた。落ち着いた静かな語り口で、お話をいただいたときまず驚いたということ、三鷹のスタジオに打ち合わせにいくたび不思議とよく晴れた日だったこと、散歩する道の影が真っ黒だったこと、遊ぶ子どもの声がして「豊かな体験だった」ということを書いていて、私はそれをまっすぐでいい文章だなと思った。
もちろん読みやすくまとまっていて「上手な文章」だったけれど、それよりまず「まっすぐだな」と思った。
私はボカロをほとんど聴かず、完全にメジャーデビュー後に流行りきってから彼を知ったので、どこかで『人気者で才能のあるオシャレな人』というフォルダに勝手につっこんでいて、彼の感性を意識したことがなかった。
こんなにまっすぐな感性を持っている人だったとは。
いや、こんなにまっすぐな感性を持っていることを、はっきりと文章で示せるから「うまい」し「売れる」のだろうけれど。それはともかくとして、持っていない感性を示すことはできない。
いいな、と思った。
子どものころ
私は子どものころ絵と文章が得意だった。親に聞いても私は丸が四つ並んだ人の顔(アンパンマンみたいなやつね)を描かなかったというし、2~3歳からもうヒトガタの絵を描いていた。幼稚園児の頃に見よう見まねでひらがなを覚えた記憶があるので、たぶんモノの形を覚えて再現するのが得意だったのだと思う(そのせいでいまだに書き順がメチャクチャだという自覚はある)。
で、学校ではいつも優等生タイプの作品をつくっており、賞状をたくさんもらった。これについて、さくらももこ先生が「たまたま賞状をもらえる分野が得意でよかった。スポーツならひとつももらえないところだった」というようなことを述べており私は心底共感した。
だけど『金賞』とかに選ばれる作品ってやっぱ、絵も文章もテクニックとはまた違うんですよね。そこには不可侵の感性がある。
小学校中学年のとき、黒い画用紙を切り抜いて後ろからカラーセロファンを貼るという図工の授業があった。私はこんなことばかり覚えているなあ。
当時の私はステンドグラス風の作品ってことね、と理解し、画用紙の穴とカラーセロファンでなにかの絵を描く作品をつくったと思う。たしか花とか妖精とかそういうものだった。
でもクラスメイトの女の子がつくった作品があまりにも素晴らしくて、全身で絶望したのを覚えている。自分の作品のことなんかもう忘れたけど、その作品は覚えている。
その子が画用紙に開けた穴はなにかの形になっているのではなくて、うろこのような連続した穴に色とりどりのセロファンを貼り、画用紙一枚で『色』だった。風の流れみたいだった。
これはすごい、と心から思ったし、こういう作品は私にはつくれない、とがっかりした。
そういう記憶がずっとある。
純粋な感性、というものに、ひどく惹かれてしまう。
ちかごろ
好きなWebライターさんがいる。
ライターなのに長い文章が読めず、本を一冊も読んだことがない、という前情報が気になって、彼が生まれてはじめて小説を読んでみるという記事を読んだのがきっかけでファンになった。すごくいい記事で、メチャクチャにバズってたので知ってる人もいるかもしれない。
とにかく文章が読めない、という意味がわからなかったけれど、まず漢字や言い回しにわからないところや気になる部分があると一行でずっと考え込んでしまうから先に進めないらしい。そのうちどこを読んでいるかわからなくなってしまうという。まあそれは生真面目さとか、不慣れさによると言えるかもしれない。
あと、感受性が豊かすぎるのだなと思った。文章に書かれたすべて(ほんとうにすべて)に感情移入し、いちいち自分と似ているところや違うところを探し、一行ごとに相槌を打ち、全身で「わかる!」と返事をする。これはたぶん、ひとりで読書を楽しむのは無理だ。精神が疲弊してしまう。多くの人にとって読書とはきっとどこかでひとりきりの「娯楽」であり「ひまつぶし」であり「こなす」ものになっていて、こんなに細部まで自分を重ねたら苦しい。私も『映画や本に引っ張られて落ち込む』というのをやりがちで、そのせいで映画が苦手だからわかる。
最近読書に気が乗らない理由まで思いがけずわかってしまった。
読書というのは、全力でやると傷つくのだ。
彼は傷つくことに無頓着に、すべての文章に全力で当たり、全力で笑い泣きときに拍手を送っていた。ライターの本領発揮というか、記事の最後に書かれた感想文はまさしく感性のままに綴られており、本当にこの本を楽しんだのだということがビシビシ伝わってきて私はベッドの中でしくしく泣いた。
私はまた、いいなあと思ってしまったのである。
プロフィールを見るとほとんど同い年であり、私とほぼ同じ年数の人生を過ごしているはずなのに、剥き出しのままの感性が汚されることなく、また傷つくことを恐れてそれを隠すことなく生きている姿に、憧憬と嫉妬を覚えてしまった。
世界を疑わない姿勢。それは子どもにしか持ちえないものだと思っていた。でもなんか、いろいろ見てたらどうやらそうじゃないみたいで、私は最近「それ」を持った人がずっと羨ましいのである。
このブログだって結局は体裁を取り繕った小手先の文章で読みやすい3000字にまとめたもので、私がのたうち回って「いいなあ~~~~!!!!!!」と喚いたことなんか本当は誰にも伝わらないのかもしれない。
やさしいもの、美しいもの、気高い魂に強く憧れるし、そういう人が好きだ。
それは裏返してしまえば、私がそれを持っていないから、羨んでいるだけなのかもしれない。強く欲してなりふり構わず手を伸ばす勇気すらも持ち合わせていない。ただなんとなく、小学生のころから、あれは持っていないなあ……と思っているだけだ。